haiku・つれづれ
haiku・つれづれ - 第33回
現代アート作家たちが見たhaiku
小野裕三
2023年10月〜11月に、ロンドンのアートギャラリー(White Conduit Projectsギャラリー)で開催されたアート展「SPLASH ! The Haiku Show」に、俳句作品およびワークショップ講師として私は参加した。このアート展は、日本や英国の現代アート作家たちがhaikuをテーマに作品を制作し、英国の詩人数人と私がそのアート作品に呼応するhaikuを作って会場で音声として流す、という構成のものだった。
White Conduit Projectsギャラリー
屋外からの展示風景(ロンドン)
そこで、そのアート展に参加した、非日本人の現代アート作家4人(オリビア・バックス、マリサ・クラット、アビ・フレックルトン、リサ・ミルロイ)にhaikuに関する質問をしてみた(なお、同じく参加した日本人アート作家2人は、日本で幼い頃から俳句のことはよく知っているだろうと考え、今回の質問の対象にはしなかった)。下記の青字がその質問と答えである。
四つの質問
- あなたのような芸術家の観点から、俳句はどのように見えますか?
- 俳句はあなたの芸術にどのようなインスピレーションを与えましたか?
- 今後の作品において、俳句とのコラボレーションの可能性はあると思いますか?
- 俳句を書き始めることに興味はありますか?
オリビア・バックス
- 俳句を楽しむことは、彫刻がいつ完成するかを認識するようなもので、それ以外にないです。編集は最も難しい仕事のひとつなので、俳句での制約はむしろそれから自由にしてくれます。
- 彫刻構造。
形を表す色。
皮肉なユーモア。 - 本展覧会での展示が始まるまで、私の詩作品に誰も反応したことはないです。その経験は、私自身の彫刻に対する見方を変えました。今後のコラボレーションをぜひ楽しみたいと思います。
- 読みやすいものだと約束するわけではありませんが、ずっと芭蕉の俳句の本を楽しんで読んでいますので、 おそらくいつの日か俳句を作ることに手を染めるでしょう。
マリサ・クラット
- 私は西洋のビジュアルアート作家として、ビジュアル俳句に対してはまさに文学としてかつ敬意を持って接しています。テキストの俳句であれ、ビジュアル俳句であれ、可能な限り、私は同じ規準で捉えています。
- 2019 年に、私は写真と多くのデジタル編集を用いて、1年間にわたるビジュアル俳句制作プロジェクトに着手しました。 これらは、三行詩という形式、そして、季節感を入れるという俳句の規準に従っています。ごく自然に季節感が出るように季節ごとにイギリスの同一地域で撮影すると決めたので、春、夏、秋、冬の作品があり、シリーズ全体では73作品の構成となりました。
- はい。本展覧会に参加したことで、詩的なイメージが凝縮された、より抽象的なアイデアを得ることが出来、ビジュアル俳句の可能性に対する私の概念が広がりました。
- 絶対にないとは絶対に言いません。
アビ・フレックルトン
- 俳句には、物事の間のつながりを非常にシンプルに表現したり、繊細でユニークな方法で比喩を表現したりする方法があります。これは私が彫刻でしばしば試みていることだと思います。
- 私は、それと知らずに俳句を書いていたと言えるでしょう。自分の作品の説明やタイトルに使う言葉は、だいたいが自分で書いた詩からの引用で、それは、おおまかかも知れませんが、俳句の構造に沿っていることもあります。
- 本展覧会での展示のために私の作品に呼応して詠まれた俳句を、私はとても楽しみました。作品に込められた思いやアイデアをそのまま表現しているようなものもあり、まったく新しい解釈のものもありました。 彫刻とテキストの間を行きつ戻りつするという考え方が私は好きで、これは将来、他の作家やアーティストと一緒に、双方向かついくつかの連続したステップに呼応する共同作品を作るために探求することができるかも知れないと思っています。
- はい、俳句のルールについてもっと学び、過去や現代の俳句を読んで、自分の作品づくりに役立てたいと思います。
リサ・ミルロイ
- 私の絵画の構成構造 (格子目、散布、線、グループ)を考えると、私は俳句の形式の外観が大好きです。一行目に五音、二行目に七音、三行目に五音、という形式のことです。
- 感情と概念的な複雑さに結びつく美しい形の経済性
強力な視覚的イメージ
対立する力のコントラスト
驚きの要素を備えた遊び心の質
物質的なものと非物質的なものとの相互作用
タッチや熟練の軽さ
物質世界、自然、日常的な物への集中した観察
スペース、タイミング、リズム、流れ
言われていないことを通して言われたこと - 俳人とコラボレーションして、絵画の中で彼らの俳句にビジュアル的に呼応する作品を作ってみたいです。
- いいえ。私のメディアは言葉ではなく絵です。
以上が四人のアート作家たちの回答だが、まずは彼らがhaikuの本質を的確に捉えていることに感心した。もちろん、彼らの直感力がそれを可能にしていることもあるが、要因はそれだけでもなさそうだ。その背景には三点の理由があると考える。
一点目は、彼らは英語という言語を通じて俳句を見ているということだ。というのも、私が英語俳句の世界を見ていて感じるのは、英語というプリズムを通して俳句を見ることで、その本質を純粋に捉えることができる、ということだ。日本語の韻律に深く内在する五七五というリズムであったり、あるいは歴史や文化ともつながった季語という存在であったり、といったものは日本語で俳句を見る際にはある種の色眼鏡として働く。端的に言えば、五七五と季語があることで、俳句はしばしば「古めかしい型にはまったもの」に見えてしまう。だが、英語を介することで、その色眼鏡は取り払われる。そこに見えてくるのは、きわめて現代的で実験的な装置たりうる俳句の姿であり、例えばリサ・ミルロイが数多く列挙した俳句の特性も、俳句の実験的可能性を明確に示していると思うし、そのことは英語というプリズムを通すことでよく見えてくる。
二点目は、彼らが現代アートと呼ばれる領域に取り組んでいるということだ。というのも、現代アートの作品の佇まいは、きわめて俳句のそれに近しいと感じることがある。作品の技術よりもそのコンセプトや考え方を重視する姿勢が現代アートにはあるが、それは結果として作品の外観のシンプルさにもつながる。そして言うまでもなく、そのシンプルさは俳句の佇まいを強く想起させる。また、現代アートには社会的テーマへの関与を重視する姿勢があるが、そのことは日常生活の機微に常に寄り添おうとする俳句の姿勢とどこか通じる面がある(すべての俳句がそうだというわけではない)。例えば、アビ・フレックルトンが、シンプルさという視点から俳句と彫刻の近しさを指摘するのも、そんなことと無縁ではないと思う。そんな現代アートに取り組む彼らの目だからこそ、スムーズに俳句の本質を理解できる、というのは頷けることだ。
三点目は、彼らが視覚的なアート作品を作っているという、まさにそのこと自体に起因する。リサ・ミルロイが言うように、彼らの主なメディアが言葉ではない、というその事実ゆえに、彼らは俳句の本質をよく捉えられるように思う。というのも、以前にある日本の俳人と話していて、はっと思ったことがある。俳句の権威ある賞を受賞した俳人でもある彼は、私にこう言ったのだ。
「自分は言葉を使って何かを書くことが苦手で、だから俳句をやっているんですよ」
俳句をやる人たちは当然のように言葉への関心が強く、言葉で何かを表すことに長けているから俳句をやっているのだろう、とそれまで思い込んでいた私には、その告白は発見だった。確かに俳句は短い。だから、言葉を苦手にする人にもとっつきやすい。そしてむしろそれだけでなく、非言語的な何かを言語で表現する、というどこか矛盾したぎりぎりの選択こそが、俳句の短さとして形になっているようにすら思う。つまり、俳句は言葉遣いに長けた人のための表現手段なのではなく、むしろその逆なのだとしたら。そしてそんなことを傍証するかのように、英語の世界では俳句のことを「言葉のない詩(wordless poem)」と呼ぶことがあるらしいのも興味深い事実だ。そうだとするなら、マリサ・クラットのようにビジュアル俳句を作るという非言語的行為は、実はもっともよく俳句の本質に肉薄できうる方法かも知れない。あるいは、オリビア・バックスが指摘した、編集という行為を省いてくれる俳句こそが、作者を自由にしてくれる、ということにも近そうだ。文章を書くことにつきまといがちな編集という煩雑な行為が大幅に軽減され、言葉を素材としてそのままの形で提示するような感覚を孕む俳句は、言語芸術よりもむしろ視覚芸術に近い側面を持つのかも知れない。
ともあれ、ここまで記してきたような三つの要素が相乗的に作用し、結果として、英語圏の現代アート作家、という一見もっとも俳句的な環境に程遠いと思える彼らこそが、実に的確に俳句の本質に肉薄しようとしていたことは驚きだった。そんな彼らからの回答は刺激的で、日本の俳人から見ても瞠目すべき指摘が多く詰まっていると思う。
会場風景。手前: アビ・フレックルトン、
奥(左から右へ): オリヴィア・バックス、リサ・ミルロイ、稲岡亜里子
リンク
小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』『超新撰21』(共著)。国際俳句協会評議員および英国俳句協会会員。
ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/
